そもそも北条氏とは?
12世紀末、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府の初代将軍となった頼朝は北条政子と結婚し、のちの2代将軍頼家、3代将軍実朝と跡継ぎに恵まれますが、落馬が原因で(諸説あり)命を落としてしまいます。北条政子の父であった北条時政は、頼家や実朝の祖父にあたるため、その立場を使って政治に大きな影響を与えていくことになります。
この北条時政に始まり、鎌倉時代の終盤まで政治を支配していた一族が北条氏です。
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北条執権とは?
頼朝の死後、北条時政は政治事務や財政を行う政所の長官となって政治の実権をふるうようになりました。この地位は次第に「執権」とよばれるようになり、鎌倉幕府の政治に大きな影響を与えていくことになりました。
この執権によって行われた政治を執権政治とよび、執権の地位は北条時政の子孫に受け継がれていくことになります。執権を中心としたその他の一族との合議制という形で政治は進められていきますが、鎌倉時代の後半には北条氏の独裁同然の状態になっていきます。
北条氏の家系図を見てみよう!
(引用元」Webio URL:https://www.weblio.jp/content/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F)
北条氏の家系図です。ついている数字が何代目の執権であるかを表しています。初代執権は時政、二代目執権はその子である義時となり、基本的にはその子孫が執権を担当していることがわかると思います。また後述いたしますが、受験において執権として特に覚える必要があるのは、この義時の子孫が多いです。
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北条氏を全員覚える必要はありません!
先ほどもお伝えしましたが、執権を務めた北条氏は全て覚える必要はありません。以下に受験において覚えるべき執権を記載します。
初代:時政
二代目:義時
三代目:泰時
五代目:時頼
八代目:時宗
九代目:貞時
十四代目:高時
以上の7名です。これらは家系図のところで説明したように同じ血筋となっています。歴史的にもこの7名の執権の時代に、大きな出来事がありました。
執権を全員覚えるのではなく、ポイントを絞って覚えてしまいましょう!
それぞれ何をした人なのか
それでは覚えるべき北条氏と、その主な内容についてざっくりと説明します!語呂合わせや歌で丸暗記するのではなく、理解して覚えていきましょう。
・初代:時政
北条政子の父として、執権の地位を確立。
将軍であった源頼朝の子である二代目頼家を手兵によって暗殺させ、跡を継いだ三代目実朝も追放しようと企てました。
・二代目:義時
彼の時代に起こったことは何といっても承久の乱です。1221年に起こったこの乱は、それまで政治の中心であった朝廷が政権を取り返そうとした出来事で、主導したのは後鳥羽上皇でした。義時は執権としてこの反乱を抑え、今後同じようなことが起こらないように、朝廷を監視する機関として京都に六波羅探題を設置しました。
ちなみに、この承久の乱の際に、御家人たちに対して演説をおこない奮起させたのが、北条政子です。
・三代目:泰時
彼は名執権と呼ばれ、非常に多くの出来事に携わりました。その一つが、1232年の御成敗式目の制定です。この法はそれまでの公家法などを否定する意味合いはなく、史上初の武家法として武士たちの生活に関わる内容を定めました。
また、執権を補佐する役職である連署、有力御家人による話し合いの機関である評定衆を設置するなど政治の体制を整えたのも泰時です。
・五代目:時頼
彼が設置した引付衆とよばれる機関は、裁判事務を行い評定衆を補佐する役割を担いました。また北条氏以外の一族を政権から追放する他氏排斥として、三浦泰村を滅亡させた宝治合戦もこの時代の出来事です。
・八代目:時宗
彼は元寇が起こった時の執権でした。元寇とは、フビライ=ハンが日本を侵攻するために二度にわたって兵を送ってきた出来事の総称です。日本軍は防備と暴風雨によってこの侵攻を撃退することができました。
・九代目:貞時
この頃から、北条氏の本家である得宗家が特に強大な権力を握るようになっていました。その中で執権に就任した貞時は、得宗専制政治とよばれる独裁的な政治をおこなうようになります。こうしたことから得宗家の家臣である御内人と、その他の御家人たちの対立は深まり、霜月騒動とよばれる事件に発展してしまいました。
また先の元寇の影響で生活が困窮した御家人たちを救うために、御家人が質入れした土地を無償で返させることを決めた永仁の徳政令はこの時代に発令されています。
・十四代目:高時
彼は最後の得宗として執権を務めたました。この頃朝廷内では皇位をめぐって持明院統と大覚寺統という二つの系統にわかれ対立していました。これに対して幕府は、両系統が互いに皇位につくことを定めました(両統迭立)。しかし、即位した後醍醐天皇とその部下たちによって鎌倉幕府は攻め落とされ、1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。